江戸城を壊す仕事があった!?幕末の“解体施工管理”に迫る
明治維新の象徴として知られる「江戸城の明け渡し」。
しかし、その後この巨大な城がどのように扱われたかをご存じでしょうか?
実は幕府が終わりを迎えたあと、江戸城は“壊されることで新しい時代を迎えた”のです。
その現場には、今でいう施工管理者や現場監督に近い役割を果たした職人たちが存在しました。
工期・費用・人員・資材の再利用――。
150年以上前の彼らも、現代と同じように「管理」という視点で工事を進めていたのです。
本記事では、江戸城の解体を“施工管理”という視点から掘り下げ、
当時の棟梁たちがどんな判断を下し、どのように現場を整えていたのかを紐解きます。
江戸城解体の背景 ― 「破壊」ではなく「再利用」だった
明治元年(1868年)、徳川幕府が政権を返上し、江戸城は新政府の手に渡りました。
「東京城」と改名され、新政府の中心として一部が使用されます。
しかし、すべての建物が残されたわけではありません。
火災で焼失した建物、老朽化した御殿、そして新しい都市整備のために、城内の多くが解体されていきました。
特に明治6年(1873年)に出された「廃城令」は、全国の城を整理する政策でした。
江戸城でも御殿・門・長屋・石垣の一部が対象となり、建材は公共建築や官舎に再利用されました。
木材、瓦、金具、石材――。
これらは廃棄ではなく、「資源として再生」されていったのです。
当時の政府は資材不足に悩まされており、江戸城の建材はまさに「宝の山」でした。
再利用を前提に計画された解体は、今で言う“サーキュラー解体(循環型解体)”の原点とも言えます。
一部の記録では、「西の丸御殿の木材が福島や愛知の官舎に使われた」と伝えられています。
これは有力な説ですが、一次資料が少ないため「そう言われている段階」に留まります。
一方で、赤坂離宮(現・迎賓館)や横浜税関などに江戸城由来の建材が転用されたことは複数の文献で確認されており、
こちらは比較的信頼性の高い史実と考えられています。
解体を担ったのは誰だったのか
では、実際に江戸城を壊したのは誰だったのでしょうか。
記録によると、現場を担ったのは旧幕府の大工・石工・鳶職たちでした。
彼らは長年、江戸城の修繕に関わってきた熟練職人であり、建物構造を熟知していました。
どの部分から壊すべきか、どの材が再利用できるか――その判断を下せる人材です。
当時には「施工管理技士」のような資格は存在しませんが、
現場の棟梁や番匠頭(ばんしょうがしら)が実質的に現場監督として工事全体をまとめていました。
彼らが担っていた役割は、まさに現代の施工管理者そのものです。
- 工期・解体手順の設計(工程管理)
- 人員・安全・段取りの統括(労務管理)
- 解体材の選別・保管(資材管理)
- 搬出経路・再利用先の調整(物流管理)
当時の文献には、「御殿取壊目録」「材木帳」「瓦数目録」などの記録が残っており、
どの資材がどこへ運ばれたかが克明に書かれています。
これらの帳簿は、今でいう搬出管理簿やマニフェスト伝票に相当します。
つまり、江戸時代の職人たちはすでに「管理と記録の重要性」を理解していたのです。
このように見ると、江戸城の解体現場は「壊す現場」ではなく、
“整然とした施工管理の舞台”だったと言えるでしょう。
驚くほど精密だった「工期」と「費用」の管理
江戸城の解体には、どれくらいの人とお金が動いていたのか。
残された記録からは、現場がかなり計画的に動いていた様子が見えてきます。
明治初期の会計記録には、江戸城・西の丸御殿の解体費用がおよそ3,000両前後とかかったと読み取れるものがあります。
これは現在のお金に置き換えると数億円規模に相当するとも言われています(当時の1両=およそ数万円〜十数万円超に相当する計算例が使われる)。
また、数百人規模の人夫・大工・石工・運搬人が動員されたという記述も複数残っています。
班ごとに役割が割り振られ、「誰がどこを壊し、どの資材を回収するのか」があらかじめ決められていた、とされています。
つまり、解体はただの「取り壊し」ではなく
計画を立て、段取りを守り、進捗を確認しながら進める“管理された事業”だったということです。
これは現代でいうところの
工程表・人工(にんく)計画・原価管理に相当します。
工期に遅れが出ないように人を増やすのか、それとも工程を入れ替えるのか――
そういった判断を下す役割の人物が、現場には確かに存在していました。
資材の仕分けと再利用 ― “分別解体”の原点
現代の解体工事では「建設リサイクル法」により、コンクリート・アスファルト・木材などを分別・再資源化することが求められます。
実は江戸城の解体でも、これに近いことが行われていました。
当時の記録には、「材木帳」「瓦目録」「釘・金具控え」といった帳面が残っています。
どの建物から取り外した材木か、長さはどれくらいか、何本とれたのか、どこへ運んだのか――
こうした情報が細かく記されていました。
これらは、現代の現場でいう
搬出管理簿・資材台帳・マニフェスト(産廃管理伝票)にあたる存在です。
特に瓦は、一枚ずつ手作業で外し、割れていないものは回収・保管されました。
瓦はそのまま別の役所建築や兵営施設(軍関係の施設)に使えるため、極力壊さずに外すという技術と段取りが必要でした。
木材も同様です。
梁(はり)や柱に使われていた太い材は、再利用価値が高いため優先的に確保され、
反対に細かい部材や腐食部分は低い評価で扱われた、と記録されています。
これは、「高い価値の資材から確保する」という再利用の優先順位づけがあったことを示します。
こうした動きは、江戸城の解体が
“スクラップ”ではなく“資材供給プロジェクト”だったことを物語っています。
どこへ運ばれたのか? ― 江戸城の材の行き先
江戸城から出た木材・瓦・石材は、どこへ行ったのか。
これも「運搬記録」の形である程度残っています。
史料の中には
江戸城の資材が、東京市中の役所・官舎・学校・兵営(軍の施設)に使われたという記録が確認できます。
特に、当時の明治政府は新しい役所の建設ラッシュだったため、質のよい柱材・梁材は積極的に転用されました。
一方で、「江戸城西の丸御殿の材木が福島や愛知に運ばれ、現地の官舎に使われた」という話も広く語られています。
これは有力な説のひとつとして知られていますが、
具体的に「この材は江戸城の〇〇を使った」と断定できる一次史料は限られており、現在も研究段階にある内容です。
ただし、江戸城由来の資材が東京都内・横浜・赤坂方面(のちの赤坂離宮の関連施設など)に再利用されたという点については、
複数の記録が一致しており、かなり信ぴょう性が高いと考えられています。
いずれにしてもポイントはひとつ。
江戸城の解体は、明治新政府の建設プロジェクトの資材供給源になっていたということです。
搬出計画と“近隣対応”という視点
江戸城の資材は、城内から外へ運び出され、川の船便や馬で運搬されました。
つまり工事は「壊して終わり」ではなく、「大量の荷物を都市の中でどう動かすか」という物流計画そのものでした。
当時の記録の中には、搬出経路や搬出時間帯を調整したという記述もあります。
昼は人通りが多い道を避け、夜間・早朝の便を使うなど、江戸の市中に影響が出ないよう工夫していた、と伝わります。
これは、現代の現場でいう
「搬出ルートの事前申請」や
「近隣への説明・挨拶」に近い考え方です。
大型車両が住宅街に入るとき、解体業者が近隣へ挨拶するのは今も当たり前です。
江戸時代末~明治初期の解体現場でも、街への影響を小さくする工夫がすでに存在していたことは注目に値します。
安全管理と“現場のルール”
江戸城の建物は巨大でした。
柱や梁は太く、瓦は大量に積まれ、石垣は高く積まれています。
当然ながら、むやみに壊せば命に関わります。
当時の解体現場では、棟梁が現場の中心に仮の拠点を構え、そこから作業手順を口頭で伝えるという形がとられていたとされています。
これにより、どの班がどこまで進めるか、どこから先は危険だから手を付けないのか、といった線引きが共有されました。
これは、現代の「朝礼」「KY(危険予知)ミーティング」「立入禁止エリアの設定」と同じ役割を果たしています。
もちろん当時はヘルメットも安全帯もありませんが、“危ない壊し方をしない”というルール作りはあったことがわかります。
また、夜間作業を行う場合には、明かりの配置(提灯・油灯など)も管理対象でした。
暗所での解体や運搬は転落・崩落のリスクが高いため、灯りの置き方を指示したという記述も残っています。
これは、現在の「夜間作業灯の配置計画」に近い運用です。
こうした記述から見ると、江戸城の解体現場には
安全と工程をまとめて監督する役割が確かに存在していたと考えられます。
現代でいう施工管理者そのものです。
まとめると、江戸城の解体現場ではすでに
「工期・費用」「資材再利用」「搬出と近隣配慮」「安全統制」
という4つの要素が管理されていました。
150年以上前の解体工事は、いま私たちが行っている施工管理と本質的に同じ考え方で動いていたと言ってよいでしょう。
江戸城解体と現代の施工管理 ― 150年越しの共通点
江戸城の解体に関する記録をよく読むと、そこには現代の施工管理業務と驚くほど共通する仕組みが見えてきます。
資格制度も安全基準も存在しなかった時代に、すでに「計画・段取り・安全・品質・人・コスト」という考え方があったのです。
これは偶然ではなく、“現場を混乱させないための知恵”が、どの時代にも共通して存在することを示しています。
下の表では、江戸城の解体で見られた管理内容と、現代の施工管理業務を比較してみます。
| 管理項目 | 江戸城解体(明治初期) | 現代の解体施工管理 |
| 工期管理 | 口伝と帳簿で進捗を確認。棟梁が日ごとに指示。 | 工程表・アプリ・日報でリアルタイム管理。 |
| 人員管理 | 棟梁や番匠頭が職人を班ごとに統率。 | 職長・安全責任者・監督による明確な分担。 |
| 資材管理 | 木材や瓦ごとに札を付け、搬出先を帳簿で記録。 | マニフェスト・搬出台帳・廃棄証明書で管理。 |
| 品質管理 | 再利用材を選別し、破損を防ぐよう作業順序を調整。 | 分別解体とリサイクル法に基づく再資源化。 |
| 安全管理 | 棟梁の指示で危険箇所を限定し、事故を防止。 | 法定安全基準・KY活動・リスクアセスメント。 |
| 近隣対応 | 搬出経路・時間を調整し、通行人の安全を確保。 | 事前挨拶・掲示・苦情対応・騒音対策を実施。 |
こうして比較すると、当時の現場にもすでに「管理の思想」が確立していたことが分かります。
書類やシステムの有無ではなく、“現場を整える意識”こそが、150年前から続く職人の共通言語だったのです。
「壊す」ではなく「整える」 ― 江戸城に見るマネジメントの哲学
現代の解体工事においても、最も大切なのは「壊す順序を誤らないこと」。
安全かつ効率的に次の工程につなげる――。
それは単なる撤去ではなく、“整える仕事”です。
江戸城の棟梁たちも同じ考えを持っていました。
彼らは壊すのではなく「次に使える形へ整える」ことを目的に、慎重に建物を分解していったのです。
この思想は、現代の施工管理者が大切にする「次工程への引き渡し品質」とまったく同じです。
私たちが現場で「後の工程が困らないように」と考えるとき、
その根底にあるのは江戸時代から受け継がれた“職人の整理の哲学”かもしれません。
施工管理者の原点は「棟梁」にあった
史料をたどると、江戸城解体の現場には
棟梁(現場の技術責任者)、役方(資材・運搬の監督)、御用人(経理・報告担当)という三層構造がありました。
この分担はまさに、現代の「現場監督」「施工管理」「事務・経理」の関係と重なります。
彼らは日々の作業進捗を報告し合い、予算や納期を守るために調整していました。
たとえば、棟梁が工程を指示し、役方が資材の搬出を管理し、御用人が帳簿をまとめる。
この三者の連携により、巨大な解体現場を統率していたのです。
つまり、江戸城の解体現場にはすでに
「チームで管理を行う」という概念があったことになります。
それは現在の建設現場で行われる「工程会議」「安全打合せ」と本質的に同じです。
「帳簿」という見えない施工管理ツール
江戸城解体の際に残された帳簿や目録には、
「何を」「誰が」「いつ」「どこへ」運んだかが細かく書き込まれていました。
この帳簿は単なる会計書類ではなく、
工程日報・搬出管理簿・作業記録のすべてを兼ねた“現場台帳”だったと言えます。
数百人の職人が関わる中で、全体の進捗を把握するために不可欠なツールだったのです。
現代ではそれが「施工管理アプリ」「日報システム」としてデジタル化されていますが、
本質は変わっていません。
記録を残し、現場の透明性を保ち、責任を明確にする――
これが施工管理の原点です。
工事は終われば形が消えるもの。
しかし記録が残れば、「誰がどのように現場を整えたか」が未来に伝わります。
江戸の棟梁たちは、その大切さをすでに理解していたのでしょう。
江戸城の解体から見える「施工管理の原点」
江戸城の解体は、単なる「取り壊し」ではありませんでした。
資材を無駄なく再利用し、膨大な人員と工程をまとめ、街への影響を最小限に抑える――
その一つひとつに、現代の施工管理と共通する知恵が詰まっていました。
当時の棟梁たちは、いま私たちが行うような
工程調整・安全指示・資材管理・報告を行いながら、
壊すことを通じて“次の建築”を支えていたのです。
つまり、江戸城の解体は
「破壊」ではなく「整備」であり、
「終わり」ではなく「始まり」だったと言えるでしょう。
150年前の知恵が、今の現場にも息づいている
現代の解体現場でも、私たちが日々行っていることは本質的に同じです。
- 工程を守るために段取りを組む
- 安全を守るために指示を出す
- 資材を管理し、無駄を減らす
- 近隣への配慮を怠らない
- 記録を残し、責任を明確にする
これらはすべて、150年前の江戸城解体でも行われていた“管理”そのものです。
時代が変わっても、「現場を整える」という仕事の本質は変わらないのです。
現場を「守る」存在としての施工管理者
施工管理者の仕事は、ただ工程を回すことではありません。
安全・品質・スケジュール・近隣対応――そのすべてをまとめ、現場を“守る”ことにあります。
江戸城の棟梁たちも、まさにその役割を担っていました。
彼らは言葉こそ違えど、「安全第一」「効率」「品質保持」を意識していたのです。
それは今、私たちの現場に受け継がれている職人の誇りでもあります。
だからこそ、現代の解体工事においても、
“壊す”ではなく“整える”という意識が求められます。
江戸城の解体を見つめ直すことは、施工管理の本質をもう一度確認することでもあるのです。
現代の「江戸城解体」──ボッコスが受け継ぐ精神
私たちが解体工事で最も重視しているのは、
「安全」「近隣対応」「資材の再利用」「誠実な管理」です。
これは、まさに江戸城の棟梁たちが150年前に実践していた考え方と同じです。
解体は終わりではなく、次の建築・街づくりの始まり。
一つの現場を丁寧に整えることが、未来を支えることにつながります。
江戸の職人たちの知恵と誇りを受け継ぎながら、
私たちボッコスも「現場の安全」「工程の管理」「再利用の推進」を徹底しています。
まとめ
江戸城の解体は、単なる歴史の一幕ではありません。
そこには、現代の施工管理にも通じる多くの学びがあります。
- 計画性と記録の徹底(帳簿・目録)
- 再利用を前提とした分別(リユースの思想)
- 人・資材・安全を束ねる棟梁の存在
- 街に配慮した搬出・近隣対応
これらの要素は、今も解体現場の中心にあります。
つまり、江戸城の解体は“近代施工管理の始まり”だったと言っても過言ではありません。
150年前の職人たちが築いた管理の知恵を、私たちも現代の技術で磨き続けています。
壊すことは終わりではなく、次を生み出す第一歩。
それが、解体工事という仕事の本当の価値なのです。
解体や施工管理に関するご相談は、ぜひ
ボッコス
へお気軽にお問合せください。
江戸の職人の知恵を受け継ぐ“現代の解体のプロ”として、
安全・丁寧・誠実な工事をご提案いたします。
