明治の東京大改造:江戸の町を解体した人たち
副題:壊すことで、近代がはじまった。
明治維新で江戸が東京へと変わったとき、そこには“建設の人”だけでなく、“解体の人”がいました。
幕府の終焉とともに、江戸城や武家屋敷が次々と姿を消し、瓦、柱、梁、石垣の一つひとつまでが全国へと再利用されていきます。
それは「破壊」ではなく、再生のための解体。
“壊す”という行為を通して、新しい時代の“基礎”を築いたのです。
本稿では、明治の首都改造を支えた無名の解体者たちに光を当てます。
誰が江戸の町を壊し、どのように再利用し、何を残したのか。
その姿勢には、現代の解体業にも通じる「時代をつくる力」が息づいています。
第1章:江戸から東京へ──「解体」から始まった明治の都市計画
1868年、江戸が「東京」と改称されたとき、日本はかつてない規模の都市改造に踏み出しました。
それは「建てること」ではなく、「壊すこと」から始まります。
旧体制の象徴であった江戸城とその城下町を、新政府の首都へと作り変えるため、まずは徹底的な解体が行われたのです。
江戸城の中枢は政府機関として転用されましたが、外郭に広がる大名屋敷や藩邸は不要とされました。
赤坂・麻布・芝・本郷──その名を聞くだけで今も残る街々が、当時は大名屋敷群でした。
これらが次々と取り壊され、道路や官庁街、住宅街へと姿を変えていきます。
当時の明治政府はヨーロッパ型の近代都市を理想としていました。
石造りの建物、広い道路、上下水道。
しかしその基盤を整えるには、まず旧幕府時代の建築物を撤去する必要がありました。
「解体」は、近代化の第一工程だったのです。
武家屋敷が消えていく──東京大改造のはじまり
旧幕臣や諸藩の屋敷は明治政府の手で払い下げられ、民間に売却されました。
広大な敷地は分割され、道路が新設され、都市計画が進められます。
このときに形成された街区が、いまの霞が関・永田町・赤坂見附などの原型です。
特に「火除地(ひよけち)」の再配置は、防災上の重要施策でした。
密集した木造建築の街並みを解体して空地をつくり、火災延焼を防ぐ。
“安全を生むための解体”がここにありました。
「解体業者」がまだ存在しなかった時代
この時代、「解体業者」という職業はまだ存在しませんでした。
解体を担ったのは、建物の構造を知り尽くした大工や左官、石工、人足(にんそく)と呼ばれる職人たち。
彼らは「建てる人」であると同時に、「壊す専門家」でもあったのです。
重機など存在しない時代、人力による解体は危険と隣り合わせ。
それでも彼らは、建物を一つずつ丁寧に分解していきました。
壊すことを破壊ではなく、再生の作業と捉える姿勢が、すでにここにあったのです。
第2章:武家屋敷を壊したのは誰か──“明治の解体職人”たち
明治の東京で“解体”を担ったのは、まだ「解体業者」という言葉が存在しなかった時代の職人たちでした。
彼らは、大工・左官・石工・人足(にんそく)と呼ばれる人々で、
江戸の建築を支えてきた「町人職人層」がそのまま“解体の担い手”となったのです。
幕府が崩壊し、武家の建築需要が消えた明治初期。
彼らは仕事を失うどころか、今度は「壊す側」として新たな活躍の場を得ます。
こうして江戸の職人文化は、「再利用を前提とした解体文化」へと姿を変えていきました。
釘を使わない“組み構造”が生んだ解体文化
江戸時代の木造建築は、釘をほとんど使わない「木組み構造」でした。
そのため、建物を壊すといっても破壊ではなく、部材を“分解”していく作業です。
梁(はり)を抜き、継手(つぎて)を外し、柱を一本ずつ外していく。
壊すのではなく、「解く」という言葉がふさわしいほどでした。
この技術を支えたのが、江戸の大工たち。
彼らは構造を理解し、どの部材が再利用できるかを瞬時に判断しました。
つまり、明治初期の“解体職人”とは、構造設計を理解する再利用のプロフェッショナルだったのです。
当時の解体現場では、職人が次々と部材を外していき、
背後では材木商がその木材を買い取り、馬車や筏で運び出していきました。
壊した家の木が、別の土地で再び家を支える。
それが当時の“循環型社会”の姿でした。
「再利用市場」の誕生──材木商が動かした解体経済
明治初期の東京では、武家屋敷の解体ラッシュにより、膨大な中古建材が流通しました。
材木商・古物商がそれらを買い取り、地方の建築業者や寺院へ販売。
こうして「再利用市場」が誕生したのです。
瓦や障子、建具、畳、扉。
解体された家のほとんどすべての部材がリユースされました。
「江戸の瓦は焼きが良い」「江戸の木は狂いがない」と言われ、
地方では高値で取引されたと伝わります。
当時の政府は、旧藩邸の建物を「一棟単位」で払い下げ、
落札者が自ら解体して材を運び出す制度を導入しました。
この仕組みが、明治の“解体請負業”の始まりとも言われています。
材木商が流通を管理し、職人が解体を行い、商人が再販する。
この連携によって、明治初期の東京は「解体による再構築」という独自の都市経済を形成しました。
それはまさに、再利用と再生が生み出すサーキュラーシティ(循環都市)でした。
第3章:解体資材が全国に旅をした──“江戸材”のリユース文化
江戸から運び出された木材や瓦は、全国各地で再び命を吹き込まれました。
明治初期の記録には、「江戸より材を運ぶ」「旧幕府建物の材を拝領す」などの記述が残ります。
それは、江戸城や武家屋敷の解体資材が、地方で再利用されていた証です。
たとえば、愛知県名古屋市の興正寺では、江戸城の材が使われたという伝承があります。
また、福島県会津若松では「御三家屋敷跡」に江戸城の木材が移されたとされ、
栃木県の寺院にも同様の伝承が残ります。
確証のある史料は限られるものの、これらの言い伝えは当時の再利用文化を示す貴重な痕跡です。
「江戸より材を運ぶ」──明治初期の建築記録に残る言葉
明治5年(1872)頃の建築帳簿には、「江戸ヨリ材木ヲ運ブ」「旧幕府御用建物ヨリ拝領ノ材」などの記録が複数見つかっています。
これらは、江戸の解体資材が地方の学校・役所・寺院に転用されていた証拠です。
江戸の材木は、乾燥が進み、反りや割れが少なく、加工精度も高い。
特にケヤキ・ヒノキ・スギなどの良質材は、解体後も再利用価値が高く、
地方では「江戸材」としてブランド化されていました。
こうして江戸の木材は、鉄道・蒸気船・河川舟運などの発展とともに全国を旅し、
明治日本の“骨格”を形づくる重要な資源となっていったのです。
地方へ広がる「江戸材リユース」のネットワーク
江戸からの建材輸送を支えたのは、近代交通の発展でした。
蒸気船の登場、鉄道の開通、河川舟運の整備。
これらが、木材や瓦といった重量物を遠方へ運ぶことを可能にしました。
とくに深川・品川・両国などの河岸(かし)は、材木集積地として賑わいました。
「江戸材市場」と呼ばれ、解体資材の取引が日々行われていたといいます。
そこでは、かつての大名屋敷の柱や梁が、新たな買い手を待って積み上げられていました。
材木は束ねられて筏に組まれ、利根川・荒川・多摩川を下って運ばれました。
その先で蒸気船に積まれ、さらに地方へと渡る。
こうして、江戸の木は再び日本各地の建築に生まれ変わりました。
ある意味、これは“建築資源のリユース物流ネットワーク”の始まりとも言えます。
江戸の木が支えた明治建築
明治初期に建てられた役所・学校・寺院・商家の中には、解体された江戸建築の部材が再利用された例が少なくありません。
中には、柱に「○○藩上屋敷ノ材」と墨書きされた木材が見つかった事例もあります。
江戸の木は、時代を超えて建物の中で息づいていたのです。
こうした再利用は、単に資源の節約というだけではなく、
当時の日本にとって必要不可欠な「近代化の加速装置」でした。
国内の製材インフラがまだ整っていなかった明治初期に、
既存の良質材を再利用することは、もっとも合理的で持続的な都市整備の方法だったのです。
つまり、解体は“壊す”ことではなく、“未来の建設を支える準備”。
そこには、「壊してつくる」という日本的リズムが確かにありました。
第4章:近代都市の誕生を支えた、無名の解体者たち
明治の東京を語るとき、注目されるのは華やかな建築家や政治家たち。
しかし、その舞台を整えたのは誰だったのか。
道路を開き、土地を整え、瓦礫を片づけ、鉄道の線路を敷く――。
それを担ったのは、名もなき解体者たちでした。
彼らは、江戸の町を解き、東京という新しい都市のために土地を再生しました。
霞が関の官庁街も、銀座のレンガ街も、
その足元は彼らの汗と労働によってならされた土地です。
「壊す」ことは「作る」ことのはじまり
明治の解体は、単なる撤去作業ではありません。
それは新しい社会を築くための“地ならし”でした。
過去の象徴を壊し、その資材を再利用しながら次の時代を築く。
それは、まさに「破壊から創造へ」という日本的サイクルの体現です。
今日で言えば「都市再開発」や「リノベーション」と同じ思想。
壊すことは終わりではなく、再生の第一歩。
彼らの仕事がなければ、明治の東京は立ち上がらなかったでしょう。
土埃にまみれ、記録にも残らない人々。
しかし、彼らの手が確かに日本の近代化を支えていました。
その意味で、解体とは「無名の英雄たちの仕事」と言えるでしょう。
第5章:いま“再生解体”の時代へ──過去と現代の共通点
150年前の明治の解体と、現代の解体。
時代も技術も異なりますが、その根底にある思想は驚くほど似ています。
それは「壊すことは、次の時代を生むこと」という考え方です。
かつての解体職人が木を分解し、材を再利用したように、
現代の現場でも、鉄は溶かして再び資材となり、
コンクリートは再生骨材として道路に使われ、
木材はチップ化されて再び暮らしを支えています。
江戸から続く「解体の循環思想」は、今なお生きているのです。
SDGsと“再生の解体”思想
現代ではSDGs(持続可能な開発目標)やカーボンニュートラルが叫ばれ、
建設・解体業も大きな転換期を迎えています。
しかし、「限られた資源を大切に使う」「廃棄を最小限にする」という思想は、
実は150年前の職人たちがすでに実践していました。
彼らは、壊す前に「再利用できる材」を見極め、
「まだ使えるもの」を次の建物へ受け渡していたのです。
その姿勢は、今で言う「サーキュラーエコノミー(循環経済)」の原点でした。
つまり、私たちが掲げる「再資源化」や「ゼロエミッション」は、
決して新しいものではなく、日本の職人文化の延長線上にあるのです。
ボッコスが受け継ぐ「再生の解体」精神
弊社ボッコスが大切にしているのも、まさにこの「再生の解体」の精神です。
私たちは、解体を“終わり”ではなく“新しい始まり”と捉えています。
古い建物を壊し、次の土地利用や再建築のために地盤を整える。
その過程で、資源を活かすこと・地域に配慮すること・安全を守ること。
これらはすべて、明治の解体者たちが残した“誠実な仕事”の現代的な継承です。
近隣への挨拶から工事後の清掃まで、
一つひとつの行動に「次の時代へ残す」意識を込めています。
解体は、土地をリセットするだけでなく、地域の信頼を築く仕事。
それがボッコスの考える「未来をつくる解体」です。
まとめ
明治の東京大改造は、無数の解体現場から始まりました。
壊すことを恐れず、未来を見据えて手を動かした職人たち。
その姿は、今も私たちの仕事の原点です。
壊すことは終わりではなく、再生の始まり。
150年前の解体者たちが示した「破壊から創造へ」という精神は、
現代の解体現場にも脈々と受け継がれています。
そして今、私たちがそのバトンを受け取る番です。
「壊す」ことを通して「未来をつくる」。
それがボッコスの使命であり、誇りです。
歴史と現代をつなぐ「再生の解体」についてのご相談は、ぜひ
ボッコス
へお気軽にお問い合わせください。
私たちは、過去と未来を結ぶ“誠実な解体”をお約束します。
